ウサギの生息数が島民人口より多く、うさぎの島として有名な島が広島県にあるということで行ってきました。広島県といっても、愛媛県と広島県を繋ぐ『しまなみ海道』の一つ、大三島からフェリーで20分程度で到着。着いた場所は、うさぎの楽園『大久野島(おおくのしま)』でした。
うさぎだらけの島・大久野島
ホテルまでの道中、うさぎに絡まれ、囲まれ、膝の上に乗られと終始ウサギ達がワサワサと木陰から出てきてはエサをねだってきました。またホテル前には、宿泊者や従業員が多いせいか、ウサギも集まり、ウサギ世界の『渋谷モアイ像・ハチ公前』状態になっていました。
公園なので、整備も行き届き海もきれいで、島に唯一の宿泊施設がにぎわっていました。ウサギ好きの方ならこの島を知っている人が多いのかもしれません。
チェックイン後、島を探索すると、戦時中の痕跡を目にしました。また、毒ガス博物館なるものがありました。興味本位で毒ガス博物館に行ってみることにしたのですが、そこでは当初島に来たときのイメージとは違い過ぎる、あまりにもショックな内容を知りました。
地図から消えた島 大久野島
毒ガス博物館で聞いてきたことを記載します。記憶があいまいなので、正確か不安ですが大体の内容はあっていると思います。以下記載。
大久野島は、昭和初期は農業・漁業が主な生産を占める静かな島でした。しかし、高度経済成長期に入り、若者は島から離れて行ってしまい過疎化が進む一方でした。また、同時期に日中戦争がはじまる頃でもありました。
島民は過疎化が進む現状をなんとかしようと、政府へ経済支援を要請しました。日中戦争をはじめ、そこからの太平洋戦争といった時代でもあった為に、政府は兵器工場を島に建設することにしました。施設完成時、島民は喜び、労働者としてその建設された工場へ働きに行きましたが、この時島民は何の製造工場かまだ知る由もありませんでした。
実は、建設された工場では化学兵器(毒ガス爆弾)が製造されていました。対戦争用として、毒ガス爆弾を製造する過程において、製造に携わる労働者は防毒マスク・スーツを着ていましたが、それでも工場内で毒ガスを吸い込み、また後遺症が出る人が後を絶ちませんでした。
毒薬・毒ガスは、1滴触れただけで、皮膚は水ぶくれとなりはがれます。気体として吸い込めば肺を冒し、30分程で成人を死に追いやるほどの効果でした。兵器なので(解毒薬があれば兵器として成り立たない)解毒薬ももちろんなく、この工場に携わった人々・周りの環境までも巻込んで影響を与えました。
当時、これら化学兵器を研究開発する為、数匹のウサギが実験体とされていました。
上記の工場はつい50年程前まで実在し、稼動していたそうです。今島にいるウサギ達は近年の戦争が生んだ遺物なのかもしれません。また、工場で被害を受けた方に対して何とも言えない気持ちを持ちました。博物館内では、ビデオの感想として「過疎が進む島の人たちが喜んで受け入れたものが毒ガス爆弾で、みな大変な思いをしたね」といった小学生の感想がつづられていました。
終わりに
大久野島は上記のようなことを国家の機密保持として、戦後日本地図から消されていたそうです。地図に再度掲載されるようになったのも近年になってからです。『うさぎの島♪』ですが、『戦争の傷跡を語る島』でもありました。
暗い感じのレポートとなっていますが、今はすっかり観光向けの公園となっており、行けばうさぎに囲まれ、山ときれいな海に囲まれ、夕焼けもきれいで、また私が行った日は調度海ホタル観察開始日だったので、より楽めました。食事もバイキング形式で、特に魚介類がおいしかったです。
宿泊施設はここ(→)休暇村大久野島です。